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朝も早起きして、今日はどこに向かうのか聞くと、北の方に向かうということだった。

前回オヤジが、大通りからたまたま入った集落に行き、電気も無いような生活をしている人たちを見て、自分の少年時代の風景を思いだし懐かしくなったのか、大変気に入ってしまい、
「もっと『ど田舎』に行きたい」との要望があり、今回はど田舎に行くそうだ。

昨夜一緒に夕食を食べた教授が北の地方の地主らしく、そこに行くのだそうだ。
教授は2時まで用事があるとのことで、街で時間をつぶす。
異常にアツいなか、マーケットを覗きにいくと、いろんな野菜などが売っている。
牛の頭がぶつ切りにされたままで、店頭においてあったりして気味が悪い。

街にある博物館に行くと、珍しく日本人がいた。その人は東大の美術史かなんかの研究員らしく古井さんとか言ったが、名前の通り古いものが大好きなのか、目を輝かせながら写真を撮ったりしている。一つ、そこにあった石碑の説明を早口に(しゃべることは山ほどありそうだ)してくれた。
牛とロバとラクダの絵が石盤に描いてあるのだが、これは地元の豪族が王様に忠誠を誓う為に作ったもので、もしわたくし(豪族)があなた(王様)を裏切ったら、来世、私は牛に、妻はロバに、息子はラクダに生まれ変わるでしょう、という意味を込めた石盤なのだという。
この人はまだ若そうに見えるのに、サンスクリッド語まで読めるという。すげえ。
まだまだ聞きたいしあっちもしゃべれそうだったけど、忙しそうだったので切り上げる。

ランチは中華を食べた。カレー味がしないものは中華くらいしか食べられない。コーンスープが優しい味である。チャーハンは世界中で美味しい。

2時になったので、教授を迎えにいき、その家族(奥さん、息子、甥っ子)を載せて北の町に向かう。名前はわからない。
今から向かう『ど田舎』は貧乏なバングラデシュの中でもさらに貧乏な地域らしく、気温も一番高いのだそうだ。

またもや、同じような風景が延々延々と続く。本当に坂が無いのだ。山も無いの。
信じられないような危険な運転をしながら、9人を載せてNISSANキャラバンは北上する。
車の中で、バングラデシュの国歌を歌ってもらい、代わりに「君が代」を歌って返した。
バングラの国歌は長い。覚えられない。君が代はすぐ終わるからいいね。終わった後の余韻が素敵なんだ、と思った。

あまりにも同じであまりにも真っすぐな道を5時間くらい行って、「もういいよ」と我慢しきれなくなった頃、目的地に着いた!もう7時だ。夕暮れ時。
幹線道路を曲がり少し中に入っていくと、綺麗に道沿いの両端にライチの木が並んでいる道を行くと、とても感じの良い別荘らしきところに着いた。日本で言う「蔵」のような作りで、スゴいしっかりした家だ。
家に着くと、全然使ってないその家を管理する為にいると思われる、使用人みたいなのが出てきた。先祖代々、この家族の使用人をやっているのだそうだ。
なんと別荘前にある湖(沼?)に魚をとりにまでいってくれる。

暗くなってきて、家の電気も華やかに点いていたのだが、いきなり停電になる。バングラデシュでは停電は日常茶飯事。
教授の息子(見た目は真っ黒な黒人,14歳、メガネ)が「近くのマーケットに行かないか?」と誘って来たので、快く快諾すると、みんなで行こうということになり、暗い道を歩いてマーッケットに向かう。するとホタルがアチコチを飛び回っている。とっても綺麗で、上を見ると、こんなに星があるのか!!!と驚くほどの星空。天の川ってのがどういうものなのか、初めて分かった。
なんて綺麗なんだ。
長い移動時間もすっかり報われた気がして、いよいよバングラデシュに来たなーという実感が。

マーケットにつくと、「え!?ここにこんなに人がいるのか?」と驚くくらいの人がいる。そいつら全員がみんなハンパない視線をこっちに送ってくる。みんなチャイなどを飲んでゆっくりしていたようだが、全員がこっちに集まってくる。もう日本人が来たということが、相当珍しいのだ。
特別に外に用意してくれた、椅子に座り、そこにチャイを運んでくれて、真っ暗の中、5.60人に囲まれながら、ガン見されながらチャイを飲んだ。

みんな、そうとう娯楽に飢えている感があった。
こりゃあ、レゲエのサウンドシステムでも一個置いとけば、三年もしたらハンパない発展したりしそうだな〜と話す。楽器をおいとけば、かってに珍しい音楽が生まれそうだと思った。なんせ時間があるからな。ヒマだから。ジャマイカってこんなんじゃないかと思った。
で、オヤジが宣教師なんかがココで布教したら全員キリスト教に入信するな、とか言っていたが、スゴく納得出来た。何も娯楽が無い時だったら、神様も娯楽だな。暇な人にいろいろなおハナシをしてくれる宣教師、千夜一夜物語だなー。話す相手が王様じゃなくて村の人だってことだ。

その後、教授の先祖からの家ってとこに車で向かう。なんかオバケが出そうな建物だった。かなり立派で荘厳だけど。
教授の息子が、英語で紹介してくれた。
「ここら辺は、ボクのおじいちゃんのおじいちゃんが支配(lord on)したんだよ、と無邪気に話していた。一回身分が決まったら100年も200年もその身分が続くことを考えると、小学校でいじめられると、6年間はいじめられ続けるというのに似ている気がした。

さて、もう夜も遅いので、別荘の方に戻った。停電も終わり、まったりしているといきなり、ナヒード教授が「明日は5時半起きです。ダッカに戻ります」と言う。
いいとこ着いたばっかりなのになんでだ?
理由を聞くと、大学で会議があるらしくナヒードがいないと始まらないとのこと。

僕たちは、仮眠をとったくらいで早朝5時半に起きて、またダッカに舞い戻るのであった。
その道中大変なことがおきるのであった。
次回に続く。

# by unkeeen | 2009-08-01 01:23

昨年も行ったのだが、またオヤジとバングラデシュに行ってきた。
今回は道連れに古着屋ストリップのナベ君も一緒に行った。
ナベ君は最近バンドでギターを弾いてもらったり、アコースティックな音楽に挑戦してるんだけど、その時ウッドベースを弾いてもらったりしている。マーシャルのハウラセ方はかなりもってかれる。

出発は7月20日
前日19日は、芸館が作る映画の一環で「レイクショウ」に出演。むちゃくちゃ楽しいライブだった。エキストラがいるってのはスゴいことだ。で、演技でも客がノッテルくれてると嬉しいな、盛り上がれるな、と思い、やっぱり演技ってのも大事だなー、嘘から出たマコトって言葉を思いおこさせた。

初日は17時成田発、4時間半くらいで、香港に着き、トランジット(乗り換え)してまた4時間くらいでバングラデシュの首都、ダッカに着く。あっちに着いたのは夜中の2時。こっちの4時。時差は2時間。

やたら対応の遅いイミグレを通り抜けると、前回と同じナヒード教授がむかえにきてくれ、
ダッカ大学の中にあるゲストハウスに泊まる。綺麗なホテルだ。

早々と就寝して、次の日の朝。
ナヒードに今日はどこに行くのか訪ねると、前回と同じマンゴーの里ラジシャヒに向かうという。
同じコースに多少驚いた。ま、またマンゴーかよ。しかし今回はナベ君初めてだし、まあいいか。
でも前回来たとき今度は南に行って船に乗りましょう!って言ってたから、一応
「南にはいかないですか?」と尋ねると「サイクロンがくるから行かない方がいい」とのことだった。
なんだ、南に行ってマングローブ見たいな。。ナベ君も海を見てみたいと言っている。
でもまあいいか。

車はNISSANキャラバン。運転手付き。
前回来た時の運転手は態度がナヒードの気に入らなかったらしく、原因は一年前のブログにも書いたが、解雇されてしまったようなので、今回はいい運転手を探してきたとのこと。
「もう人気で人気で引っぱりだこなんです」(実際ナヒードは『引っぱりだこ』などの言葉を使う。かなりの語学力だ)
男前の運転手を共にしてダッカを出発。

朝10時くらいに出たのだが、相変わらずの渋滞などのせいで遅い。150キロも離れていないラジシャヒなのだが。やはり前回と同じく延々と緑の田んぼ、川、動物、いい国だ。
今年は雨期に全然雨が降らず、大変らしい。しかし全然緑だ。

道中、ナヒードは「遅い遅い」と言っているので、
オヤジが「ごはんは余り腹へって無いから、バナナくらいでいいよ」と提案したが、完全スルーで無視。
道路沿いの綺麗なレストランによる。お腹いっぱい食べる。時間を食う。
途中、何度も気になる風景があったり、店があったりして、ナヒードに「車を止めるよう」言っても「着くのが遅くなる」との理由で車を止めない。
だったら、優雅にランチなんかとらなきゃいいのに。

結局、ラジシャヒに着いたのは、7時前くらい。飛行機でバングラに来る時間と変わらないくらいかかってしまった。
ホテルはやっぱりなかなか綺麗なところで、ちょっと先に行くとポッジス川がある。
ポッジス川はつまりガンジス川なのだ。ガンジス川の下流なワケです。
たくさんのバングラ人が川沿いを散歩している。
日本から持って来た小さいアコースティックギター2本でちょっと弾き流した。
歌うとナヒード教授に「ちゃんとふざけないで歌いなさい」と注意された。
ふざけてませんが。まじですが。

で、ナヒードの知り合いの教授と待ち合わせて、夕ご飯。
もうお腹いっぱいだよ、と思ったが、カレーはうまい。肉の薫製っぽい、黒い固まりがかなり美味。
帰ろうとすると運転手がいない。ナヒードが怒りだす。
しかしボクは街の子どもと追っかけっこをしたりしていられたので、楽しかった。
30分くらい待たされて、ホテルに帰り就寝。
さあ、コレからが本番だ。
次の日に続く。。。

# by unkeeen | 2009-07-31 18:50

以前高野山大学のお坊さんのハナシを聞く機会があって、その坊さんは曼陀羅発掘の第一人者だった人なのだけど、奇人っぽくて話してる途中にキキキと笑う人だったが、その人がカオスってやつについて話してくれた。

インドの話。
電車の踏切があって、そこに大量のインド人が押し寄せてくる。
人が多すぎて(インドの人の多さは尋常じゃない)踏切のとこで絶対に渋滞になるはずなのだが、
その踏切までくると、不思議なことに、見事なくらい、えもいわれぬ動きをして、そのインド人達は何気ない顔をして、スピードをゆるめず踏切を通り過ぎていくのだそうだ。そして、踏切を通り過ぎるとまたもとのようにグチャグチャとした一団となってしまうのだそうだ。

この「えもいわれぬはたらき」を起こせるのがカオスなのだ、といってそのお坊さんはまたキキキと笑った。「それはもう見事なんですよ〜!キキキ」とちょっと尋常じゃない笑い方をした後、「みんなカオスって言うとぐちゃぐちゃとした無秩序みたいなのを想像するけど、本当のカオスってやつは、秩序を作るよりも機能的とも言えるもので、例えば信号機を作るよりも、そのインド人のわけの分からない有機的連帯のほうがうまくいっている」みたいなことを言った。

ただのぐちゃぐちゃなのか、それとも形を自由自在に変えられるホンモノなのか、が問題だ。
なにが分かれ道になるのかなー?
コミュニケーションの密さとかかな。
距離が無い。愛がある。とかかな。
共通意識かな。
同じ言葉をしゃべるとかかな。
境界線をとっぱらうってのはそういうことなのかな、
なにか大きいものに心を寄せるというか。

土のにおい

# by unkeeen | 2009-07-01 02:32

世の中には精霊さんがいると思う。
精霊さんの働きは!?

柏で活動する「クンクンニコニコ共和国」「メーラ」「ネーパールー」のドラマーである「ナム」くん
のおかげでいろいろな企画に出させてもらったりしてるんだけど、ナム君が「妖怪ミュージックレーベル作りましょう!」「僕いろいろ妖怪見つけてきますんで!営業しますんで!」と言われてすぐやると決めた。。
名前は「関東妖怪レコード」とかイロイロ言ってたんだけど、そういえば座敷童が出るってウワサの「小料理喫茶ワシントン」の矢口さんが作ったという「ワシントンレコード」からダスってのがいいんじゃないかと思った。

# by unkeeen | 2009-06-30 18:25

僕は隔月で「水戸士魂(シコン)の会」という水戸学を勉強する集いに通っています。
今日も勉強会の日でした。
元々「吉田塾」というやっぱり水戸学の勉強をする集まりがあるんだけど、それの弟分みたいな存在で、年輩の方が多い吉田塾より若い人が入りやすい会を、ということで結成された会なのです。
水戸学とはなにか?とか水戸の歴史だとかを基本に、博学の「成文先生」のハナシは脱線して現代の世界情勢からヒトラーの話まで飛びながら、最終的には若輩者の僕たちを「武士」にしてくれるそうだ。

今日は天狗党の歴史を勉強してきました。
ので、みんなにも少しおすそ分け。

天狗党とはつまり「世直し軍」みたいなものです。
藤田小四郎が尊王攘夷で檄文を飛ばし、挙兵すると筑波山に1,000名以上集結。
下妻あたりで幕府軍と戦い、日光に参拝、追い払われて、水戸に帰ってくると、
水戸はどうも雲行きが違う。どうやら逆賊扱いされてしまい、一緒に水戸城に入ろうとした、宍戸藩の殿様は切腹を命じられる始末。
これは何故かと言うと天狗党とは下級武士が中心となって結成されたもので、昔からの家柄の良い武士(諸生派)は天狗党の行動をケムタク思ってるんです。
偕楽園を作った徳川斉昭は藤田東湖以下天狗党の連中を重用したんだけど、それからして諸生派の連中からすれば面白くない。
将軍のお膝元であり御三家の水戸藩が、幕府に対して反旗を翻すなどもってのほか!というわけだ。
分かる気がするな。。。

  諸生派の連中はもとから、徳川斉昭が藩主になるのを望んでいなかった。
  徳川斉昭の兄が若くして亡くなった時、跡継ぎ問題でもめたがその時も、
  藤田東湖率いる改革派(天狗党)は徳川斉昭を推し、
  市村サンザエモン率いる諸生派は水戸藩が貧乏だったので、
  御三卿(ゴサンキョウ)の清水家から水戸の殿様としてお招きする方向だった。
  清水家から殿様を呼ぶと、莫大な持参金が一緒に付いてくるので、
  その持参金があれば借金だらけの水戸藩も
  きれいさっぱりになってしまうという目論見があったのだ。
  しかし、いきなり遺書が出てきて「後継者は斉昭」と書いてあったもんだから、
  水戸藩の殿様は徳川斉昭になった、という経緯がある。

話を元に戻します。
殿様でさえ切腹なんだから、寛大な御沙汰は望めそうにも無い、
こうなったら、徳川斉昭の息子、その時京都にいた一橋慶喜に直々に謁見しておゆるしを頂戴しにいこう、天狗党の擁護者であった斉昭の息子ならばハナシを分かってくれるはずだ!と
天狗党は一路西上し京都に向かうのであった。
もう冬になっているというのに、いくつかの合戦を経て、木曽の山道を超え、はるばる敦賀(福井県)まで行くと、
あろうことか、おゆるしを頂戴しにいったはずの、徳川慶喜軍が天狗党をやっつける総大将として
対峙しているではないですか!!
ここで、降伏するか、それとも長州まで行けばなんとかなるんじゃ?と意見が二分されたが結局降伏することになる。

最初天狗党は寺にかくまわれ、武士として丁重に扱われ帯刀も許されていたのだが、幕府から来た田沼印旛の守はヨーシャなくキビしか人で、全員を臭いクサいニシン蔵に閉じ込め、足かせまでつけ、飯も一日一個の握り飯にぬるま湯を与えるだけというひどい扱いをした。

進軍している間、木曽路では英雄扱いされた天狗党の無念さは想像するに余りある。
その後300人以上が首を斬られるというひどい結末を迎えてしまった。


で、二年後、明治維新を迎えても、維新の魁であった水戸の面々は全く新政府に登用されることもない。
それどころか、天狗党の生き残り達は、水戸に凱旋した時入城させてくれなかった諸生派の連中に復讐しようと躍起になってしまう。総大将だった武田耕雲斎の孫も乱に参加していたが、まだ10歳にもなっていなかったというので、逃がされた。それが大きくなって復讐の鬼となる。

水戸中の諸生派の家に潜り込み斬りまくったとのことだが、やり過ぎだろうと思うと、そんなことは無い、諸生派の連中は連中で、武田耕雲斎が死んだ時、その首を塩ずけにして妻のもとに送り、妻にその生首を抱かせながら首を斬り、2歳と3歳の子どもも一緒に斬ってしまっている。


こんなことをずっとやっているもんだから、世の中が文明開化だ明治維新だと浮かれている頃に、水戸は出遅れて、もううだうだになってしまう。仲間割れ。やだね。最悪。きらい。

今日は、もう最後の結末がロクでもなくて、なんか気持ち悪くなって帰って来たんだけど、
この気持ち悪さが残っている間にブログにしたためました。長くてすいません。

# by unkeeen | 2009-06-18 01:58